Q4.「押しつけ憲法」だから変える?

A.「押しつけられた」のは国民ではなく当時の支配者層
そもそも「押しつけ」とは、今の憲法は「よくない」という特定の価値観に基づく議論です。はたして、改憲派の人が指摘するように、日本国憲法は、米国による「押しつけ・植民地憲法」というべきなのでしょうか?
日本国憲法の成立を考えるにあたって、まずふり返っておきたいのが、アジア・太平洋戦争の終結・敗戦と、その際日本政府が受託した「ポツダム宣言」です。このポツダム宣言は、無条件降伏ということにとどまらず、新しい日本のあり方として、平和、基本的人権、民主主義を掲げ、これを受託した日本政府にとっては、この実行が国際公約となったわけです。
しかも、注意してほしいのは、このポツダム宣言では、連合国が民主主義をゼロから創るとしたのではもちろんなく、「日本国民の間における民事王義的傾向の復活・強化」(第10項)と言っています。
これは、近代以降の日本にあった明治期の自由民権運動や大正デモクラシーなどの民主主義の伝統、国家権力からの弾庄を受けながらも地下水的に受け継がれて来た民権の伝統が、そこでは想定されていたわけです。そう考えると、日本に本格的な民主主義の制度が成立するのは歴史的必然だったと言えましょう。戦後改革は、「押しつけ」によって無理やり日本になかったものを産み出したのではなく、もともとあったものの産出を助けた、いわば ″産婆術″だったのです。

 結論からいうならば、あらゆる点で「押しつけられた」のは当時の支配者層であっても国民ではありません。当時の政府の憲法問題調査委員会(松本委員会)は、極秘審議で、かつ何と明治憲法をほぼそのままにしてそれを改正案としようとしていました。政府案は、ポツダム宣言にも反して、天皇主権のまま、しかもたとえば、「天皇は神聖にして侵すべからず」を「至尊にして侵すべからず」に変えるといった程度のものでした。国民の選挙によって選ばれていない彼らは、国民の平和・人権・民主主義を強く求める声をまったく聞こうとしていなかったわけです。これには国際世論はもちろん、国内世論さえもおおいに批判的でした。

 このとき、天皇制を残そうとしていたマッカーサー・GHQにとっては、「極東委員会」が成立する間近の時期であり、憲法制定は急がねばならなかったので、政府にやり直しをゼロからさせるよりも、国際世論から見て最低線の水準を示した自らの草案を渡した方が早道だろうと考えて、GHQ自らつくった草案を日本政府に交付しました。その際、GHQの民政局長ホイットニーは、きわめて慎重な言い回しで、「これを押しっける意思はないが、これが国際水準の最低線だろう。あなた方も天皇制を維持したいというならばせめてこの程度の民主憲法草案を用意してもらいたい。どうしても嫌ならそれはそれでよいが、そのときは政府案とGHQ案の両方を国民に示し、最後は国民投票で決めてもらおう」という提案を日本側にしました。 
 
 むしろ、憲法を国民が直接選ぶ機会を潰したのは当時の政府当事者たちであり、なぜならこのような二者選択の機会が与えられれば、国民がGHQ案を選ぶのは確実で、そうなれば彼らの政府は倒れ、新しい政権担当者はGHQ案のような民主主義改革を積極的に推進する人々で占められてしまうことが確実だったからです。むしろ、彼らは自らの地位を維持するため自ら草案を受け入れたというのが真相です。
 しかし、これも所詮政府案にすぎません。政府案がいかなるものであっても、最終的に決定するのは議会であるわけです。この後、女性も参政権を持った男女平等のはじめての選挙が行われ、その民主議会での徹底審議を経て、日本国憲法は成立します。その際いくつかの重要な修正も行われました(生存権挿入など)。だから、日本国憲法は、民主議会の審議と承認をちゃんと経たものなのです。

憲法草案の内容は日本の民衆がつくったもの
さらに重要なことは、GHQ草案の内容がどこから来たかということです。
そもそも憲法草案づくりを担当したGHQの民政局のメンバーは、弁護士や大学教授などで占められ、思想的にも世代的にも多くはニューディーラーと呼ばれる自由な思想と発想を持つ人々でした。しかし、彼らといえども、何もないところから短期間で憲法草案を創ることができたわけではありませんでした。彼らは当時発表されていた日本の民間の憲法草案を参考としたのです。
 彼らは、当時の民間草案、「憲法研究会」の憲法草案をもっとも参考にしたことが今日では明らかになつています。さらに、この憲法研究会案の構想がどこから来たかをさかのぼると、その筆をとった鈴木安蔵は、明治自由民権運動の研究者であり、植木枝盛などの重恩法草案を参考にして草案作りを行ったといっています。そうであるとすると、明治・自由民権運動→憲法研究会→GHQ草案という方向性が見て取れます。まさに日本国憲法は、長年
にわたって民衆自身が求めてきた「民権」原理の実現というべきでしょう。GHQ草案は、実質的には、日本の民衆草案だったというわけです。

憲法第九条の提起者は幣原喜重郎首相であった
憲法研究会案がGHQ草案のモデルだとしても、重要なものが欠けています。それは憲法第九条・平和主義条項です。これはさすがの「憲法研究会」案の中にさえもありませんでした。じつは、今日、憲法九条の発想の原点が、幣原喜重郎首相によるマッカーサーへの提言(1946年1月24日会談)の中にあったことが明らかになつています。
 まさに、この時の首相である幣原による平和主義条項の提起は、戦前、平和外交で世界的に有名であった外交官であった幣原外交の成功と軍部台頭による挫折の経験などが幣原を動かしたものでしょうし、また、天皇制存続を確実にしておきたいという老練な政治家としての冷静な計算もあったでしょう。しかし、幣原自身は、平和を求
める国民の切実な「野に叫ぶ声」に動かされて憲法制定に当たったといっています。
 むしろ、憲法制定過程を真撃に振り返るならば、日本国憲法は、「民衆の民権理念の実現」であり、「日米の歴史の舞台による素敵な共同作業」であったと言えるのではないでしょうか。

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