Q6.万が一攻められたらどうするのか?

A.「侵略の危機」は「蓋然性(プロパビリティ)」があるのか
ただの「不安」「心配」と現実の危機は明確に区別しなければなりません。
起こりうる「possibility(ポシビリティ)」のあることすべてに対応することなど、政治上、財政上不可能です。そもそも、これだけ経済が相互依存化している国際情勢の下、そして経済大国の日本を本格的に戦争に巻き込むだけで世界恐慌だって起きかねない状況下において、何のために日本を侵略するというのでしょうか。しかも侵略戦争とは、街の喧嘩とは異なり戦闘にただ勝利するだけで終わるというものではありません。むしろ、勝った後がたいへんです。相手国を占領し、長期にわたって占領行政を継続して行かなければなりません。そこまでして侵略・占領する誘因など日本にそもそも存在するでしょうか。日本は取るような資源もありません。人口も世界で有数の1億2000万人を超える国です。占領をして日本国民を最低限飢えさせず食わせて行くだけでもたいへんな労力と人的・物的資源の動員が必要になります。「世界に誇る工業力・技術力が日本にはあるではないか」という人がいるかもしれませんが、そうしたものは戦争によって奪うものなどではなく、平和時に経済協力・技術協力などによって獲得する性質のものです。
「突然」大軍を率いて侵略に来るということは、現代政治において「蓋然性(プロパビリティ)」がありません。そういう危機を煽ることによって、軍事費などの利権をどうしても維持したいと願う人々のプロパガンダ(政治宣伝)以外にはちょっと常識的には考えられない代物なのです。
こうして冷静に考えてみるなら、「もし攻められたらどうするの?」などと言って、現実的危機の根拠も示さず、かつ危機克服や平和構築の努力もせず、隣国不信とナショナリズムと侵略の危機を煽る人々は我々にどんな貢献をしてくれているでしょうか。
むしろ彼らの存在こそが、国策・外交を誤らせ、国際協調を不可能にし、かえって戦争の危機をつくることとなりはしないでしょうか? 

非武装・非暴力による市民的防衛論の相対的優位性・現実性
侵略の可能性がきわめて少ないといったことをたとえ証明したとしても、まさにそれでも、「万が一侵略されたらどうするか」という問い自体は残ります。
「もし万が一」…という問いは、確率の大きさの問題ではないからです。
万一の侵略に際しては、国際連合との連携や国際的な市民的連帯とともに、国内的には、非武装・非暴力の市民的抵抗を行うというのがその答えです。
 
 それは、第一に、仮想敵を作らないから、原則的にはどこの国をも刺激せず、善隣友好を通じて、紛争の原因を解決して行くことができること。第二に、この方式を通じて日本は、アジア地域に安全空間を拡げ、ひいては世界の非核化と軍縮への道を実現して行く足がかりをもつくりうるだろうこと。第三に、非武装方式は軍事費という巨大な非生産的費用を不要にし、その分だけ平和教育や国際協力など積極的な文化施策に投じることになり、平和の拡大再生産を可能にすること。第四に、同じ理由で軍事費よりも国民の福祉と教育に力を注ぐことによって豊かな民主社会を建設すれば、いわゆる間接侵略なども憂慮する必要はなくなるだろうこと。第五に、軍国主義化から生ずるあらゆるマイナス−−−軍人による盲目的文化弾圧、自由・人権の揉踊、軍産複合体の形成、軍事クーデターの危険等−−−が消滅し、真に文化国家の名に値する国家の形成が可能になること。第六に、非武装体制をとることによって、侵略の可能性を著しく減少でき、最悪の場合においても、核戦争への巻きこまれを防ぎ、民族としての壊滅を避けることができること、などです(以上の指摘は、小林直樹『憲法第九条』213−214頁、参照)。
 もともと防衛論に絶対はありません。それは相対的な優劣の問題にすぎません。その際、重視したいのは、どちらが「国民の生命や財産の犠牲がより少ないかということです。

「市民的抵抗」の政策論について
このような防衛論は、「市民に基づく防衛(Civilian Based Defense)」(ジーン・シャープ)とも言われますが、この理論においては、民主利か独裁利かを問わず、また国内のもの国外のものを問わず、政治権力は、社会の中にその成立・維持の正当性の源泉が由来するものであることに着目して、市民たちがその権力の源泉を否定・断絶することによって、支配者をコントロールし、侵略者を挫折することができるという前提に基づいています。
 ジーン・シャープ(『武器なき民衆の抵抗』)によれば、侵略に対する「市民的抵抗」の方法論として、200近い非暴力行動の組合せがあるとされます。
 
その実例を挙げると、第一に、「非暴力抗議(Nonviolent Protest)」と呼ばれるものがあります。すなわち、支配者に対する不同意の態度を人々に象徴的に知らしめる方法で、行進、巡礼、集会、徹夜、官吏へのつきまとい、抗議文の配布、ユーモラスな悪戯などであります。占領者に対する不服従を知らせるあらゆる手段が駆使されるものです。1968年に「人間の顔をした社会主義」を掲げたチェコスロバキアの「プラハの春」と呼ばれた改革をつぶすために侵入したソ連や東独などのワルシャワ条約機構軍に対して、チェコスロバキアの市民たちは、地名の入った矢印のついた地理案内標識を取り払い、モスクワとベルリンの方角を示す標識だけを残しました。侵略軍の行動の自由を奪うと同時に「どうぞお帰りください」ということですね。)また、お昼のサイレンと同時に10分間だけ、みんなで大声・奇声をあげたり、音の出るものを鳴らしたりすることによって抗議の意思を示したことは有名です。これは占領軍を大いに困らせました。簡単に市民が自発的に参加できる方法を各地で継続的に実施することが予想以上に有効な効果をあげるのです。

第二に、「非暴力非協力(Nonviolent Non-Cooperation)」と呼ばれるものがあります。すなわち、それにはストライキ、サボタージュ、種々のボイコット、政治的非協力(選挙のボイコット、政府機関就職のボイコット、行政への非協力)などが含まれ、これらの手段は、支配の効率を大幅に下げ、占領目的の達成を困難にするものです。
第三に、「非暴力関与(Nonviolent Intervention)」と呼ばれるものです。これは相手にもっとも直接的に干渉する方法で、規律ある大胆な行動をもって、比較的少数の参加者でも占領に大きな衝撃を与えるものとして、兵士との対話・説得、シット・イン(抗議の座り込み)、ハンスト(抗議の断食)、非暴力妨害、対抗政府の樹立などがあります。兵士・占領行政宮も人間です。(軍事的な抵抗をしないわけですから)まさに戦闘が終わった「平時」において、自らの生命の危険も無いのに、兵士が大量虐殺を意図的・継続的・組織的に行うことは困難です。
 
これらに加えて、第四に、「情報伝達」が重要です。国の内外に向けての情報網の整備を普段から行っておき、国際世論と国内世論(地下出版・移動電波放送・コンピューターなどによる)を喚起して侵略者に対する非難を組織的・継続的に行うためのものです。IT革命、インターネット時代の今日はその条件が以前の時代より格段に整っています。
 
こうした「市民に基づく防衛」は、平和憲法にもっとも沿った防衛論であると思います。これに対して、そもそも軍事的防衛論は、憲法の平和主義から離反し、軍事的合理性の下で弱者を切り捨て、平気で殺人をおかせるような兵士へといつでもなれるように国民を教化・訓練し、国家による中央主権的活動の中に国民を組み入れ、「有
事法制」などで自由・人権、民主主義、立憲主義を根底から破壊するものに他なりません。それとはまったく異なり、「市民的抵抗」は、非軍事・非武装・非暴力の基本理念をあらゆる場面で貫き、人権・民主主義を例外なく貫徹しながら、かつ下からの自発性と個人の創造性を生かす大いにやりがいのある活動であると思います。
 ふりかえって、実際に20世紀百年の歴史を見るならば、国民を守ってくれるはずの国家(軍隊・警察)が、外国人よりも自国民を、しかも戦争よりも「democide」(デモサイド・民殺)という形で、圧倒的に多く殺しているという客観的な事実(R・J・ランメル『政府による死』)も併せて参考にしていただきたいと思います。結局、
軍隊の本質は国民を守るものではなく、国家(支配者)を守るものなのです。

◆Copy-right hankaikennet21 All Right Reserved.◆掲載記事・画像の無断転載を禁じます。