120余名がつどい、派兵・改憲と報道の問題点・運動の行く手を問う
2・22イラク派兵と憲法改悪に反対するつどい

2月22日(日) 東京都文京区民センター2A

《主催》民主主義と平和憲法を守る文京連絡会
    日本国憲法をくらしに生かす会
    テロ特措法・海外派兵は違憲 市民訴訟の会
    憲法擁護・非核平和を進める中野区民の会
    改憲とあらゆる戦争法に反対する市民ネットワーク21


小泉政権は、昨年12月9日に自衛隊のイラク派遣のための基本計画をうちだしたことにふまえて、陸・海・空の各自衛隊に次々と派遣命令をだし、戦後史上はじめて戦地そのものへの自衛隊派遣を強行しました。同時に、自衛隊の「安全確保」の名のもとに報道統制を強化し、「テロ対策」の名のもとに治安弾圧・監視体制を強化するというように、国内における「戦時体制」を一気に強化しています。さらに、有事関連七法の制定や、教育基本法の改悪、そして、憲法改悪と、日本を「戦争をする国」へと確立していくための「法的整備」をも一挙にすすめようとしているのです。

 このような中で私たちは、「国民投票法」制定など、ますますすすむ改憲の動きの現段階と、イラク戦争をめぐる報道の問題点、そして、今後の運動のあり方を明確にしていこうという趣旨のもとに、今回のつどいを開催しました。

 当日は、パネリストの方や会場の都合で、必ずしも十分ではないままに議論を締めくくらざるをえなかったとはいえ、一二〇余名が集まり、三時間半にわたって、熱いディスカッションが行われました。どれも、貴重なお話ばかりです。今後の運動にお役立ていただけたら幸いです。
 尚、編集の責任の一切は、反改憲ネット21事務局にあります。


集会で採択したアピールの全文はこちらから御覧ください。

プログラム
開会あいさつ  片岡  豊さん(日本国憲法をくらしに生かす会)
問題提起   豊  秀一さん(新聞記者)
         成澤 宗男さん(『週刊金曜日』編集部員)
ディスカッション
     <発言> 渡辺  鋼さん
(人権回復を求める石播原告団団長)
         尾崎 真理子さん
(大学生)
閉会あいさつ
 浜崎 和馬さん(憲法擁護・非核平和を進める中野区民の会)

※以下はつどいにおいての全発言を記載したものです。<1>          < 1    >

主催者開会あいさつ
現状追認の意識をのりこえ、過去を総括して現実を切り拓いていく運動を!
――片岡豊さん
(日本国憲法をくらしに生かす会)

片岡)
今日はお忙しいなか、お集まりいただきましてありがとうございます。「日本国憲法をくらしに生かす会」の片岡です。普段は大学で日本の近現代文学を教えています。また、東京地区私立大学教職員組合連合の書記長をつとめています。今日は、「派兵・改憲と報道の問題点、運動の行く手を問う」ということで、皆さんとともに実りある議論をしていきたいと思っていますが、まずは、いま気になっていることを二点申しあげて、開会のあいさつにかえさせていただきます。

 まず一つは、自衛隊のイラク派兵が決定し、昨日(2月21日)は陸上自衛隊本隊が出発しました。世論調査などを見ると、派兵が決定して以降、派兵賛成の割合が高まるという現実があります。現状追認といいましょうか、あるいは、長いものには巻かれろということでしょうか、そうした人々の意識、それは、日本列島に暮らす人々に旧来からある意識なのでしょうが、私たちの運動は、われわれがどこかで持っているそうした意識をのりこえていく運動になっていかなければいけないと、つくづくと考えさせられています。

 第二点は、近頃、いろいろな場で議論していると、「過去のことはもうどうでもいいじゃないか。大切なのはいまどうするかだ。そして、これからどうしていくかだ」という意見がよく聞かれます。これは確かにその通り、ということもあるでしょう。しかし、一方で、いまわれわれは戦後初めて経験する事態を眼前にしているわけです。なぜこのような事態をいま迎えてしまっているのか、このことのきちんとした総括なしに、ただただ「さあ、大変だ」ということであれこれ考えてみても、現状を変えていく本当の力はなかなか出てこないのではないか、と考えています。「総括なき方針」というのは新たな力を生みだすものにはなっていかない。いまのこういう緊迫した情勢であればこそ、われわれはこれまでのわれわれの在りよう、戦後の平和運動の在りよう、例えば、憲法について、なぜこういう事態を迎えてしまっているのか、ということをきちんと問い直していく必要があるのではないか、と考えています。

 「運動の行く手を問う」という議論をするに際して、以上のような二つの観点を持って僕自身はのぞみたいと思います。今日はご多忙のなかパネリストをお引き受けくださったお三方の問題提起を受けて、実りある討論になるよう期待しています。どうぞみなさん、よろしくお願いします。(拍手)

問題提起

改憲論の現在と問題点――豊 秀一さん
(新聞記者)

豊)

人前でなかなか話す機会もなくて緊張していますが、ふだん感じていることをお話ししたいと思います。
 私はこれまで司法の担当で、特に安全保障の専門ということではありませんが、司法記者の目からみて憲法の問題はずっと興味を持っていました。それで『論座』(二〇〇四年二月号)に書かせていただいたのですが、その延長で現在の改憲論について思っていることを述べさせていただます。

民主党の「創憲」という名の「改憲」論への疑問
豊)
一月十三日に開かれた民主党大会におきまして、管直人代表は、憲法公布六十年にあたる二〇〇六年までに民主党としての憲法改正案をまとめたいと表明しました。そして、二月四日からは民主党の憲法調査会が始まりました。それは五つの作業部会があり、「総論」「統治機構」「人権保障」「分権自治」「安保国際」の五つのテーマに分けて議論を進め、年末までにたたき台をまとめるという動きになっています。もちろん、議論の対象には憲法九条も含まれています。

 私は、憲法についての民主党および菅さんの考えについて疑問に思っていることがいくつかあります。
菅さんの考えについては、党大会での発言の中に象徴的に出ていると思いますが、彼は、「官僚主権の現状を、本当の国民主権の国にするためには市民革命に代わる幅広い憲法制定運動が必要だ。単に批判するのではなく、日本の国のあるべき姿を示す、新たな憲法を創る『創憲』を主導する。
憲法公布から六十年にあたる二〇〇六年までに国民運動を集約するかたちで、民主党として新たな憲法のあり方を国民に示す。国民投票や住民投票などの直接民主主義、国と自治体の関係、財産権と環境権の調整、会計検査院の国会への設置などを検討している。憲法改正は合意できるところから順次変えるのが現実的。」と述べています。

「官僚主権の現状を、本当の国民主権の国に」の欺瞞
豊)
この発言の中で私がまず疑問に思うのは、「官僚主権の現状を、本当の国民主権の国にする」という部分です。
そもそも「官僚主権」という言葉そのものが何を指しているのか意味不明だというのはありますが、いまの政治が、いわゆる官僚主導になっていて問題だというのであれば、それは、政治家が主導すればよいのであって、そもそも政策や国会答弁の内容を官僚任せにしているのは政治家自身です。
ですから、本来は、政治家の質が問われるという問題であって、「官僚主権」という言葉を使って、あたかも政治のお粗末さを官僚の問題であるかのようにすりかえるのは本末転倒です。また、「本当の国民主権の国にするためには……憲法制定運動が必要だ」というのは、〃世の中が悪くなっているのはみんな憲法のせいだ〃といわんばかりの言い方でありまして、これは自民党や公明党、および経済界の言っている改憲論やそれらの憲法のとらえ方として、まったく異なるところがないと思います。

そもそも、「本当の国民主権の国にする」と言っても、現行憲法でも「国民主権」を謳っているわけです。問題は、それをどう実質化していくか、そのために政治の質をいかに高めていくのかということであり、それはまさに政治家の日々の活動にかかっています。それをなおざりにしておいて「本当の国民主権の国にする」といっても、あまりにも空虚です。

「市民革命に代わる…憲法制定運動」の欺瞞
豊)
二つ目には、「市民革命に代わる…憲法制定運動」と言っていることです。
そもそも、現行日本国憲法もそうですが、通常の「先進国」なり民主主義国家の憲法には、「権力の分立」や「基本的人権の尊重」が盛り込まれていますが、これらは歴史をさかのぼれば市民革命によって獲得したものです。つまり、いまの憲法は、市民革命によって得られた思想の延長上にあるわけです。その歴史について、菅さんはどのように考えているのかと、疑問に思います。

 これは『論座』に書いたことですが、アメリカの政治学者のロバート・A・ダール氏は「民主政治のための条件が全般的に整っているような成熟した民主国家では、権利・自由の差異は憲法システムのせいにはできないということです。」と述べています。民主主義が成熟した社会では、権利などの問題は憲法の文言のせいにはできない、むしろそれを支える信条と文化がいかに育っているか、そこが問われているということです。ですから、日々の活動の中で憲法を定着させていく活動がどれほどできているのかということが問われるべきだと思います。

例えば、「基本的人権」の問題として、差別を受けている在日外国人の問題や難民の問題などに、民主党はどこまで積極的に取り組んできたのか、あるいは、「政教分離」の問題として、総理の靖国神社公式参拝の問題についてどこまで本当に闘ってきたのか、諸々の権利のための闘争をどこまでしてきたのか、かつそれを裁判所に認めさせていく努力をどこまでしてきたのか、権利擁護のための立法活動をどこまで市民に呼びかけてやってきたのか…等々。
これらのことをさしおいて、「市民革命」という名ばかりのことを言うのは明らかな矛盾です。
それは先ほど述べた「国民主権」とも関連するのですが、ただただ言葉が浮いている印象しか私には感じられません。

「創憲」という言葉も同じです。「護憲」でも「改憲」でもなく「創憲」だとか「加憲」だとか、いろいろと言葉は浮いているのですが、変えたいのであれば「憲法改正」、「改憲」といえばいい。「創憲」というのは公明党が「加憲」と主張しているのと同じまやかしで、市民にたいしては非常に不誠実な態度だと思います。

改憲の論拠とはなりえない「財産権と環境権の調整」「合意できるところから変えていく」
豊)
それから、民主党は具体的な問題として、例えば、「財産権と環境権の調整」というのを憲法に盛り込むというのですが、これは果たして憲法に盛り込むことなのだろうかと思います。「環境権」を保障するというのであれば、むしろ、「環境基本法」などを制定すればよいのです。
また、「財産権と環境権の調整」に関することは、紛争が起きた時に司法手続きの中で、それぞれ個別のケースについて法律や条令というルールに基づいて決着していけば良いと思うのです。そうした議論もろくに踏まえないまま、「憲法改正」の重要なテーマの一つにするというのは、センスを疑いますし、そもそも憲法というものをどういうふうに考えているのかと菅さんの頭の中を疑うものであります。

 また、「合意できるところから変えていく」という主張もあります。先日の『朝日新聞』の「私の視点」というコラムでも、どこかの大使だった人が「合意できるところから変えていけばいい」と言っていました。
これは、変えることが自己目的化しているということで、語るに落ちた考えだと思います。
現行憲法が障害になって、何らかの権利実現のためにいまのままではにっちもさっちもいかないから改憲だ、というのならまだ理解できますが、変えることそれ自体を自己目的化して、出来るところから変えていけばいいなどという議論は、世界のどの国でもありえない議論でしょう。フランス革命までさかのぼった憲法の歴史をふり返ってみてもおそらくでてこない、まったく理解できない発想です。

「憲法は権力を縛るもの」という立憲主義の欠如
豊)
そもそも、いまの日本では、政治家ほど憲法改正に熱を上げているという印象を受けますが、一体彼らは憲法をどういうものとしてとらえているのか、と気になります。憲法というのは本来、私たち市民にとっては権力に勝手なことをさせない歯止めであり、私たちの内面に国家が入ってこようとする時にそれにたいしてNOということができるためにあるものです。
ところが、彼ら政治家の議論を聞いていると、鎖につながれた権力者が自分たちが身動きしづらいから市民のみなさん、鎖を外していただけませんか、軍隊を動かすのにハードルを低くしていただけませんか、と言っているような印象を強く持ちます。
〃日本国憲法は権利ばかりで義務が足りない。義務が足りないからもっと義務を増やして国民の手を縛りましょう〃とか〃教育基本法で愛国心を押しつけましょう、伝統や歴史・文化をもっともっと上から押しつけましょう〃という発想もそうですが、改憲を主張している人たちには、憲法は権力を縛るものという、いわゆる立憲主義の発想が欠けています。その発想が欠けている点では、民主党も自民党も変わらないと私は思います。

 もともと憲法というのは、いろいろな考え方、異なる価値観をもった人々のそれぞれ権利を保障して、平和に生きていくための知恵であり、そのためには権力者に縛りをかけることが必要だという流れの中から生まれてきたものです。
それは日本国憲法も、アメリカも、イタリアもフランスの憲法もその考え方において大差はないと思います。
そういう立憲主義の思想というのをどこまで理解し、尊重しながら今の憲法の議論をしているのかということが、最も気がかりなところです。憲法調査会の議論を見て思うのは、「憲法を総合的に調査する」という憲法調査会の目的に沿うのであれば、まさに立憲主義のイロハのイのところから議論を始めなければいけないのに、そこが欠落していることです。その一点においても、彼らはどこまで憲法について真面目に議論しようというつもりがあるのかが、あらわれているように思います。

保守系グループが多数を占めている民主党
豊)
民主党の動きについてもう一ついえば、鳩山由紀夫さんが、菅さんに対抗してか、年内に改憲私案をうち出すと言っています。
もちろん、そこには憲法第九条の改憲案も含まれています。鳩山さんの最近の行動を見ると、中曽根康弘・元首相を自分たちの勉強会の講師に招いたり(1月29日)、日露戦争百周年にあたる2月10日には、自民党議員と一緒に明治神宮を参拝したりしています。
民主党というのは、鳩山さんのような保守系グループの方が多数なのです。こういう動きと、菅さんのような〃脳天気〃な改憲論が混ざっていったときに、民主党からどんな改憲論が出てくるのか、予断を許さない状況だと思います。

「加憲」という名の「改憲」論を唱える公明党
豊)
次に、公明党の動きについてですが、2002年の党大会では憲法九条を維持すると言っていました。 九条を維持するけれども、「知る権利」や「環境権」などは「加憲」の対象にすると言っていました。
ところが、今年の1月28日に開いた党の憲法調査会では、九条を議論の対象にするとし、2月19日の党の憲法調査会では、集団的自衛権についても議論があり、九条改正についてもむしろ国際協力の必要性があれば「加憲」的に加えたらいいのではないかという議論が出たそうです。
「創憲」という言葉もインチキ臭いのですが、「加憲」というのもいかにも目くらましでしょう。
公明党は憲法を改正し、「知る権利」や「環境権」を盛り込んだらといっています。

最近では、ドイツ型の憲法裁判所をつくったらいいと言い出していますが、九条や集団的自衛権などについては、これまではさほど議論をしてきたとは思えません。それが、「加憲」をうち出し、いまでは九条も検討対象と言っているわけです。
いまの改憲の動きは、いろいろな「改正」点が言われますが、根っこにあるのは、改憲の気運を盛り上げて九条改正へ、ということです。
公明党は、創価学会は平和勢力でその影響が強いと言われますが、かなり現状に流されているように思います。公明党の言うことは、今後もあまり信用できないと思います。

改憲派が「自衛隊違憲」論で、護憲派が「自衛隊合憲」論!?
豊)
さて、次に護憲論の変化について述べたいと思います。
 自衛隊違憲論というのは、かつては護憲の側が改憲の側に突きつけた刃であったわけですが、むしろいまは、例えば小泉首相が「自衛隊は実質的な軍隊だ」と言ったりする――これは石原慎太郎都知事もそうなのですが――そういう状況が生まれて、〃自衛隊は違憲だ、だから憲法を変えるべきだ〃と、つまり改憲派の側から「自衛隊違憲論」がでている。これが一つのムーブメントだと思います。

 それにたいして、これは会場にいらっしゃる方のなかでも意見が分かれるかもしれませんが、『朝日新聞』はずっと自衛隊は合憲だと、合憲だけれども今の規模は本来いわれている「必要最小限度の実力」を超えているのではないか、それを適正規模に戻す努力をするべきだという主張をしてきました。
憲法学者や政治学者の中にも同じような見解があります。
九条を変えさせないために、必要最小限度の実力の保持は認めていく、それがむしろ九条を生き延びさせることになり、日本社会にとってもいいことだという、自衛隊合憲論に立った「護憲論」なのです。改憲派の側から「自衛隊違憲論」がでている現在、その対抗軸として新たに護憲派の側が「自衛隊合憲論」をいう、新しい構図が生まれているような印象があります。

憲法学者の現在
豊)
『ジュリスト』の一月号に「憲法九条を考える」という特集があります。この中に年輩の方が見るとギョッとするような憲法学者の発言があります。
安念潤司・成蹊大学教授という一九五五年生まれの憲法学者ですが、彼は、
〃軍事・外交に関する限り徹底的に現実主義でいくべきだ。損得勘定、ソロバンずく一本やり。理念・理想の国際貢献を目的として追求するのはまっぴらごめん被りたい。世界から「卑怯者」だとののしられると言う人がいますが、そんなことはどうでもいいじゃないですか。政府見解を維持して九条を堅持していった方が日本にとって一番得ではないか。要するに九条で日本は戦争をしません、アジアの近隣諸国にたいして私たちは脅威にはなりません。私たちはただ車とゲームを売りまくりたいだけなんです、と、こう言っていれば九条を守りつつ日本の平和主義は結構いい線でいけるのではないか〃、
という発言をしているのです。
一昔前だったら考えられない、これが憲法学者かという発言ではありますが、あっけらかんと言いながら、でも九条を変えない方が平和主義にとっていいのではないかという、こういう主張も出てきているのです。

 『ジュリスト』の座談会の中では、龍谷大学の山内敏弘先生が、従来の自衛隊違憲説に立ちつつ、いまの違憲の現実をいかに九条の規範に近づけていくのか、という議論をなさっています。同じ憲法学者の中でも、山内さんと安念さんの世代間のギャップ、考え方の違いが一つ表面化したという意味で、今回の『ジュリスト』の特集は、いまの憲法学の状況をあらわしているように思います。

改憲派の批判を浴びる内閣法制局
豊)
自衛隊を認めつつ九条を生かすという意味での「護憲」ということについて、一つ触れておかなければいけないのは、内閣法制局にたいする改憲派の見方です。

 護憲派の側から見たときに、内閣法制局というのは、解釈改憲、九条のなし崩しをずっと続けてきた戦後の自民党保守政治にとっての理論的な守護神であった。それがいまや、改憲派の側が、内閣法制局というのはとんでもない、どういう資格があって自分たちで政府解釈を決められるのか、選挙で選ばれてもいないのに何様だという不満が高まっています。
内閣法制局、そして憲法九条の違憲審査を避ける最高裁はこの際につぶして、新しいドイツ型の憲法裁判所をつくろうというのが、いまの改憲派の一つの議論の仕方です。内閣法制局にしてみれば、これまでこんなにあなた方に尽くしてきたのに、どうしていまになってこんなにひどい扱いをするのか、という気持ちだと思います。要するに、世の中がどんどん右へ右へと動いて、集団的自衛権を認めろと『読売新聞』『産経新聞』『日経新聞』も言いだし、気がつくと内閣法制局が実は一番「左」になっていた、そういうおかしな状況になっているのが現状だと思います。

 内閣法制局が積み重ねてきた憲法解釈について安念さんは、「見事なアート」だと評していますが、確かに内閣法制局が重ねてきた政府の憲法解釈の重みというのがあって、彼らは集団的自衛権は国際法上はあるが、憲法九条の制約によって行使できないとずっと言い続けてきました。この解釈を変えることは可能か、と聞かれて「それはできない」と言ってきたのです。そこは解釈改憲の内閣法制局ではありますが、この期に及んでは「頑張れ」と私は応援したいという次第です(笑い)。

「九条改憲反対」での共闘の必要性
豊)
九条を守る闘い方、考え方の問題だと思いますが、自衛隊を従来の憲法学の通説、つまり「自衛隊は違憲」だと掲げ続ける原理的な柱が、この政治状況の中でなくてはいけないのですが、この流れと同時に、自衛隊の存在、つまり自衛力は認めつつ、しかし九条は守っていくというもう一つの流れ、これがうまく共闘できればいいと思います。

 違憲論と合憲論を理論的に結びつけるのは確かに難しいのですが、運動の仕方、ジャーナリズムなり市民運動の闘いの場面では何とかうまく共闘できないかと思います。お互いの役割が果たせればいいと思います。
私のような若造が今日このような場に出てきたのも、そういう思いがあってのことです。
二大政党制と言われますが、実態を見れば二大保守政党制で、リベラル勢力がなくなっています。その中で九条を生かす、あるいは憲法の持っている人権とは何かを考えながら、一人ひとりの権利が等しく尊重される自由な社会をつくっていくという意味でも、護憲派の闘い方というのは大切だと思います。

「国民投票法」も「憲法は権力を縛るためのもの」という観点に立って問題に
豊)
最後に「国民投票法」についてお話しします。
 憲法を改正するために最終的には国民投票で決するのですが、そのための手続き法が今はありません。そこで、改憲派の人たちがこれを整備する必要があるといっていますが、改憲の地ならしのための一つの手段だと思います。
しかし、これにたいする反対の仕方ということを、私自身、どう考えたらいいのか正直悩んでいるところです。

 「国民投票法」自体は中立というか、ただの手続き法です。憲法の中に憲法改正規定があるように、それに応じて手続き法はあってよいわけです。その法律がないからつくるということ自体は良いとか悪いとかの話ではありません。
問題は、どんな政治状況の中でこうした提案がなされているのか、狙いが何かを見ていくことしかないと思います。
どういう人たちが、どういう文脈でこの投票法をいまつくろうと言っているのか。
改憲の地ならしであるのはだれの目にも明らかです。
ありきたりですが、おかしな改憲のための第一歩だからこそこの法律を作ることは問題だと言っていくしかないと思っています。ただ、ここでややこしいのは、例えば今井一氏が『「憲法九条」国民投票』(集英社新書)を執筆していますが、そこで彼は、憲法制定権者はわれわれだ、護憲も改憲もわれわれに決めさせないで勝手にやっている、だから国民が決めるからいいじゃないかと言っています。これは一見、非常に耳目を引きやすい話ではあります。国民主権を考えれば、政治の主人公は本来私たち一人ひとりですし、憲法改正の是非を最後に決めるのは国民だからです。

 ここで強調しておきたいのは、はじめに申し上げた憲法の意味です。立憲主義の意味です。
憲法は、権力者に勝手なことをさせない手段だということを問い続けることです。
一時の気の迷いや高揚した気分、経済が落ち込んで自信を失う中で勇ましい議論がまかり通る、そんな時代の中で生まれた改憲論に安易にのって、たくさんの犠牲と引き換えに得た九条を捨て去ってしまっていいのか。この国の政治家をそんなに信用してよいのでしょうか。
こういう時代だからこそ、立憲主義とは何かに立ち戻ることが必要だと思います。以上です。ありがとうございました。(拍手)



イラク派兵と報道の問題点
――成澤宗男さん
(『週刊金曜日』編集部員)

成澤)
最初に、お断りしておきたいことが二つあります。
 第一に、報道という場合は新聞とテレビがありますが、テレビというのはウォッチするのがすごく難しいのです。
瞬間的に情報が消えて、かつ同じ時間にいろいろなところで同じ報道があります。これを後でフォローするのはほとんど不可能なのです。
だから今日は新聞に限ってお話しさせていただきます。

 もう一つは今日は新聞の報道の問題ですが、イラク戦争の評価の問題とイラクへの自衛隊派遣の問題の二つが焦点だと思いますが、自衛隊派遣の問題については今日は時間がありません。2月20日付の『東京新聞』によると自衛隊の派兵賛成が46.8%、反対が33.00%でずいぶん差がついたのですが、この現状はやはりメディアに大変な責任があると私は思います。
自衛隊派兵の問題というのは、イラク戦争とは何であったのかについて最小限の知識があれば、やっていいことか悪いことか分かると思うのです。
ところがこういう世論調査の数字が出たということは、いかに日本の大メディアがイラク戦争を誤って伝えたのかの結果だと思います。
これは絶対看過できないことだと思います。
だから始まってまだ一年も経っていないのですが、大事なことが全部落ちているわけです。落ちただけではなくて、一つの事実を歪めて伝えたという例をごく一部だけ言わせていただきます。

絶対におさえておかなければいけない三つの問題
成澤)
私のレジュメをご覧下さい。問題の前提の意図的な見落としがあります。
イラク戦争にあたってまず絶対押さえておかなければいけない問題は三つあったと思います。

1.)イラクの「大量破壊兵器」はアメリカが供与
成澤)
一つは、「イラクの大量破壊兵器」なる言いがかりをつけてアメリカが戦争をしたのですが、確かにイラクは「大量破壊兵器」を持っていました。持っていたのですが、これはイラク独自で開発したのではないのです。アメリカが供与したのです。
しかし、この歴史事実が全く落ちています。アメリカの『ワシントン・ポスト』ですら報道したのですが、日本のメディアでこのことを伝えたのはゼロでしょう。自分で与えておいて、それを「お前が持っているから脅威だから、殺してやる」というのが今回の戦争です。これがいいことか悪いことか、小学生の頭でも分かることです。

2.)「大量破壊兵器」がないことは開戦前から明白だった
成澤)
二つ目は、複雑な問題ですが、イラクの査察で大量破壊兵器を探しましたが、査察というのは02年の11月の国連決議1441があって開始されたのですが、その時が初めてではないのです。91年から98年にかけて実はすでに国連が査察していました。
それが、どういう結論に達したかというとイラクが保有していた大量破壊兵器の95%が廃棄された、ないし、残り5%はよく分からないのだが、これはおそらくイラクが提出した書類の不備によるものだろうという結論が出ています。

ブッシュ米大統領が02年の9月に国連で突然、イラクの大量破壊兵器の疑惑をぶちあげた時点で、この問題の白黒は明らかだったわけです。
なぜならば、査察が終わった九八年以降も経済封鎖がありました。
同時に、最初の査察をした時点で、査察をやっただけではなくて、イラクが大量破壊兵器を新たに製造するような部品や原料を輸入することをチェックするシステムができたのです。
だからどう考えてもアメリカの言い分はおかしいというのは分かっていたのです。

ところが、この事実を報道したメディアはほとんどありません。
91年から九八年にかけて査察をした一人であるアメリカのスコット・リッター氏が03年2月に来日して、『東京新聞』と『朝日新聞』は取りあげました。しかし、彼が一番言いたい点は、書かれていませんでした。

3.)「大量破壊兵器」の有無を断定する権限をアメリカは持っていない
成澤)
三つ目は、国連決議1441があったのですが、その決議をよく見たら分かるのですが、イラクが大量破壊兵器を持っているかどうかを断定する権限をもっているのは国連と国際原子力機構の二つのみに与えられているのです。
つまり、最終的にイラクが兵器を持っているのかどうかを断言するのはこの二つの機関が断言しないといけなかったのです。

ところが日本のマスメディアは、この二つの機関のコメントや調査についてはほとんど報道せずに、ひたすらアメリカが垂れ流す情報を報道したのです。やれ、あそこに兵器がありそうだとか…、つまり、取材の基本的な視点で違うのです。
不勉強なのか、あるいは意図的にこういう報道をしたのかは分からないのですが、その結果、いまだに国民の大多数があの戦争というのは何であったのかという点で思い違いをしている気がします。
思い違いをしているか、あるいは何かよく分からないけれどああいう戦争があった、で止まっているわけです。なぜあの時に真実を伝えなかったのか、真実を伝えていれば、今頃イラク派兵をどうしようかという問題はなかったんですよ。
だから、それだけ本当に、『読売新聞』『産経新聞』『日本経済新聞』の罪は重いと思います。

〃嘘を報道〃がわかっても謝罪しないマスコミ
成澤)
次にレジュメのBですが、自分で検証せずに、ひたすらアメリカとイギリスの言ったことを垂れ流す、自分の頭でろくに考えない。
その一番の典型例が、2月6日の各紙なのです。
『朝日新聞』も『毎日新聞』も『日経新聞』もそうなのですが、いずれも各紙のトップが、この前日のパウエル米国務長官のイラク大量破壊兵器疑惑なるものについての国連での演説が出ていました。一年経ってこの報道が正しかったかどうかなのか明らかになっています。100%、いや120%、国連でパウエルは嘘を言ったのです。その結果が、大量破壊兵器なるものなんてなかったのです。

 ところが、一面でこうやってデカデカと載せておきながら、嘘だと分かった時点で、なぜ新聞は謝らないのですか。
こんな重大な問題をこんな嘘をついた奴を、正しいことを言ったかのように報道しておきながら、それが間違いだったら、掲載した責任だって問われたって当然だと思います。しかし何も言いません。
今頃になってブッシュの言ったことはウソだったらしいと報道しますが、マスコミ自身だって煽った当事者なのですよ。
自分の頭で考えないで、ひたすらアメリカが流す情報を垂れ流していました。これは日本の冤罪報道と全く同じです。
警察が、無罪の人をでっち上げて逮捕する、そうすると鵜呑みにして各紙がその人のプライバシーまで暴いて犯人だと決めつける。そして裁判でその人が無罪になってもマスコミは謝りもしない。
全く同じパターンですね、日本のマスコミのやり方は。戦争についても、人のプライバシーについてもそうです。

許されない、戦争を煽った者たちの居直り
成澤)
レジュメのCも同じ話なのですが、この間、『産経新聞』あるいは『正論』、『諸君!』という三つの媒体が日本で最もイラク戦争を煽りたてた張本人です。その中でも指折りの人が、一人は中西輝政・京都大学教授と、もう一人は元外務省の岡崎久彦、もう一人は杏林大学にいて前の時事通信社の外信部のキャップだった田久保忠衛です。
あれだけ大量破壊兵器があるからアメリカがイラクを叩くのは当然だと言った張本人が今になって何を言っているのか、私はとても気になりました。

『諸君!』一月号では、西部邁が田久保と討論しています。西部邁は、なぜかまともなことを言い出したのですが、「イラク戦争はアメリカによる国家テロです」と言っています。すると田久保がなんと言ったか。「大量破壊兵器が出てくるか出てこないかが一時問題になりましたが、もし出てきたらそれまでの話ですから、それはそんなに大きな問題ではない」です。
何ですか、これは! 自分が煽っておいて「戦争をやれ、人を殺せ」と言った張本人が、「大した問題ではない」というのです。

権力のいったことに首をひねるのがマスコミの最低限の役割
成澤)
では、ほとんどのマスコミがなぜ戦争を煽ったのか。
おそらく、大きな理由は、日本の外信部の方は一つの偏見を持っているのだと思います。
それは、世界の情勢は『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』を見ればだいたい分かる、それが国際常識だと、そういうことを言った方も実際いました。そういう偏見が大きな理由だと思います。

 しかし違うわけですよね。『ニューヨーク・タイムズ』や『ワシントン・ポスト』だけがアメリカの新聞ではありません。
アメリカの西部には『サンフランシスコ・クロニクル』という優れた新聞もあります。イギリスに行けば『ガーディアン』や『インディペンデント』という、戦争に徹底的に反対した新聞もあります。
しかし、英語新聞の、しかもその中でもごく一部の有名とされている新聞しか読まない。それで世界が分かったと思っている。
それは違うのではないか。
その背景には、アメリカはすごい国でジャーナリズムがとても発達しているという偏見があると思います。
私はそんなに難しいことを要求しているとは思いません。報道というのは、権力がこう言ったら「ああ、そうですか」と垂れ流さないで、そうなのか? と首をひねるのが最低限度の役割だと思います。
首をひねらないで、ひたすら頷きっぱなしだったのが、『読売新聞』『産経新聞』『日経新聞』だったのです。

 ここで思い出すのは、戦前・戦中のことです。「満蒙の危機」という言葉がありました。
「日本の生命線である満州と蒙古が危ういから関東軍の軍事行動を支持して、日本も火の玉になれ」と煽ったのが、戦前の『朝日新聞』であり『毎日新聞』であったわけです。
それと同じことが今回起きました。

もう『読売新聞』の主張などを見ていると、戦前の日本の軍部賛美顔負けの見出しなんですね。
「パウエル演説 ほぼ黒になった イラク疑惑」(2月7日付)、「イラク包囲網再構築できるか」(同13日付)、「小泉首相の決断を支持する」(3月19日付)、「開戦秒読み 責任は決議愚弄のイラクにある」(同20日付)。
この20日付の「見出し」もおかしな話なのですが、法律のイロハを知らないのではないかと思います。

疑惑をかけられた人がいたとします。お前には疑惑があると言った人がいるとします。
その場合、疑惑があるかどうかを立証するのは、「お前には疑惑がある」と言った側なんです。疑惑があると言われた者ではないんです。
こんなのは法律のイロハなのですが、これも全然分かっていない。
つまりアメリカが一方的に言った「疑惑」なるものが、本当に検証されないで、イラクは疑惑を晴らしていない、晴らしていない、とひたすら言っていたのです。なぜイラクが疑惑を晴らさないといけないのか。なぜ「お前には疑惑がある」と言ったアメリカの側の検証をしないのか。
ないものを実証するのは、そもそも無理な話です。こういう怖ろしい構造がくり返されて、その結果、「イラクの自衛隊派兵は当然だ」という話になっています。

自衛隊の「安全確保支援活動」という名の軍事活動について報道しない日本のマスコミ
成澤)
いま自衛隊がイラクに行っていますが、これは法律にもとづいて行っています。
それは、イラク特措法ですが、その正式名称を知っていますか。
「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」というのですが、小泉首相は、このうちの「人道復興支援」しか言っていません。 「安全確保支援活動」については何も言っていません。
小泉首相はデマゴギストですから、彼がそう言うのならまだ分かります。しかし、なぜマスコミが「安全確保支援活動」について注目しないのか。

「安全確保支援活動」とは何かというと、法律には次のように書いてあります。
「国際連合加盟国が行うイラクの国内における安全および安定を回復する活動を支援する」、つまり軍事活動にたいする支援なのですね。
戦争に行っているのです。
法律では戦争をすると言っているのに、小泉首相の言っていることを真に受けてマスメディアは「人道復興支援」などと言っています。
記者たちは、条文すらきちんと読んでいないのではないかと言わざるをえません。そういう人たちが、NHKに出てしゃあしゃあと言うのだから、だまされてしまうのかもしれませんが…。

人の命の重さを考えた報道の欠如
成澤)
本当に言いたいことはたくさんあります。その中でも特に一つだけあります。人の命という問題です。
左翼であろうが右翼であろうが、人の命の重さというのは共通認識であるべきだと私は思いたいのです。
ところが、現実にはそうではないんですね。

『読売新聞』の記事の中で私がビックリしたのは「三週間という短期間で大勢が決着したことで、人的犠牲は最小限に抑えられた」(4月9日「社説」)。これを読んだ時には血の気が引きました。
「人的犠牲が最小限」、何ですか、これは。
この時点でもう一万人死んでるという報道もありました。今は最低二万人から五万人の間です。イラクの人口2200万人のうち1200万人は14歳以下の子どもです。その比率でいくと、一万人から2万5000人の子どもが殺されたことになります。
この子どもたちが何をやったというのですか。何の罪で殺されたのか。
私は、軍隊が市民を一人でも殺したって大問題だと思います。ところが、「人的犠牲は最小限」です。人の命とはそんなものですか。

 さらに、『産経新聞』はいま何を言っているのか。
「自衛隊員を暖かく送り出しましょう」です。送り出した後どうなるのですか。
サマワというのは劣化ウラン弾による放射能汚染地帯です。隊員は確実に被曝します。放射能物質を吸い込んだ自衛隊員が帰国すれば、彼らのパートナーや子どもにも影響がでます。もちろん、ドンパチで殺されるかもしれません。
そういう目に遭う人たちを「暖かく送り出す」というのは、何ですか。
彼らの命を思う心があれば、「日の丸」を振って行って来いなんて言えるわけありません。そんなことを言う奴は人間じゃない。
被曝して一生をめちゃくちゃにされるのを分かっていながら、「日の丸」を振って暖かく送り出すというのが今の『産経新聞』の論調です。

 残念ながら、私がこんなことを言ってもごまめの歯ぎしりにしかならないかもしれませんが、これから数年して自衛隊員個人やその家族に、湾岸戦争に従軍したいまのアメリカ兵と全く同じ構図が出ます。被爆して後遺症が出る。その時に、暖かく送り出すと言っている人たちはどういう責任を取るんですか。責任を取れるんですか。責任を取れないのなら言うべきじゃないと思います。

デタラメな報道をやった人たちを絶対に許さない
成澤)
いまの世の中で、物事を考える際の情報というのは、どうしてもテレビや新聞に頼らざるをえません。
したがって、そういう媒体は、人間の意識形成にとって重要な意味を持ちます。
そういう媒体で情報を提供する人たちが、もう少し、人が殺されることに対する思いを持ってくれたら、こんな報道にはならないと思います。私は、イデオロギーとか主義・主張については言いません。人の命の重さというのを考えてくれ、と言いたい。そうすれば「人的犠牲は最小限に抑えられた」とか「(自衛隊をイラクに)暖かく送り出す」という言葉は吐けないはずだと思います。

 私は、自衛隊員が死ぬのも問題ですが、それ以上に恐ろしいのは、イラク人を殺すことです。
殺されるのは自分で志願していったのだから仕方がないのかもしれませんが、イラクの人を殺す理由はありますか? 
イラクの人がこれまで日本に対して何か危害を加えたことがあるのですか? 私たちは彼らに対して何か恨みがありますか? ないわけでしょう。
そういう人たちを殺しにいくんです。
それを「日の丸」を振って暖かく送り出そうなんて新聞が言っている時代なんです。

新聞というのは、先ほど言った冤罪もそうなのですが、『読売新聞』にしても、突然イラク報道に関しておかしくなったというわけではありません。
日本の右派メディアの犯罪性というのは、本当に長い歴史がある。
しかし、ことは日本が初めて外国に出て他民族を殺すかどうかという瀬戸際なんです。それがいま起きつつある。
その時に、こういうデマを振り回している人たちが大手を振って歩いてほしくない。十年、二十年、三十年といった日本の未来に関わる問題について、こんなデタラメな報道をやって、こんなウソ八百を並べ立て国を誤った方向にやった人たちを、私は絶対許したくない。許してはならないと思います。
だから私はガンガン書いているのです。

 おそらく、新聞よりテレビの方が影響力があると思うので、特にNHKの報道についてなどは誰かがしっかりと取り上げなければいけないと思います。
 大手の放送局や新聞社に勤めている人の多くは、社内の空気に逆らわないでいかに自分の出世の階段をのぼっていくかということを考えているのではないかと思います。
しかも、その社内なるものが『読売新聞』のように、特定の個人に完全に私物化されているメディアだったらとんでもないことになってしまいます。
最近、『毎日新聞』が「立ち止まる勇気を」というすばらしい記事を書いているのですが、新聞記者個人も「立ち止まる勇気」を持ってほしいと私は思います。日本が立ち止まらないでこのまま行ったらとんでもないことになってしまいます。以上です。(拍手)


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