反改憲ネット21通信46号より、投稿記事を掲載しました。
「墨守中立主義」――小林正弥氏の九条解釈について


 はじめに

 最近、憲法学や政治学を専門とする大学人の論文・著書のなかに、われわれ反改憲運動の立場から見て「おやおや」と思わせるものがいくつも登場しています。その典型は、法学雑誌『ジュリスト』の2004年1月1・15日合併号の「特集―憲法9条を考える」に掲載された諸論文です。すでに、そのうちのいくつかについては、静岡大教授小沢隆一氏が批判を発表しています(「憲法九条に関する最近の学説状況について」『月刊 憲法運動』2004年5月号・6月号、憲法会議発行)。

 ここでは、『ジュリスト』に「平和憲法の非戦解釈 非戦憲法としての世界史的意義」(以下「『ジュリスト』論文」と表記)を寄せた小林正弥氏の論考に着目し、氏の独特の九条解釈である「墨守中立主義(『ジュリスト』論文では「墨守・非攻」などの表現も使用)を取り上げ、その問題点を整理することにしました。それというのも、現在、小林氏が「平和への結集」という政治的結集運動で活躍され、憲法理論の分野でも重要な提起をされているからです。

 ここでは、『ジュリスト』論文のほかに、その前後の二つの論考、

 ・『非戦の哲学』(ちくま新書、筑摩書房2003年)
 ・「非戦の原点に戻って平和主義の再生を―『平和への結集』の訴え」
(『わだつみのこえ』120号所載、2004年7月、日本戦没学生記念会機関誌。)以下、「『わだつみのこえ』論文」と表記。
 
を適宜参照しながら、氏の九条論の眼目である「墨守中立主義」について考えることにしました。
なお、本稿は、小林氏が主宰者の一人であるメーリングリスト「平和公共ネットワーク」への私の投稿文を一部利用していることをお断りしておきます。また、煩雑さを避けるため、一箇所をのぞいて、引用頁表示は省略しました。

 なお、このレポートは、憲法の平和主義理解を深めようとする考察であって、墨守中立主義が反改憲運動の共同綱領としておしつけられない限りは(『わだつみのこえ』論文にも、「『平和への結集』においては、」「『墨守・非攻』論に賛成する必要もない。」と明記されていますので)、小林正弥氏の〈平和への結集〉のご尽力については、当然、これを多とするものです。

 1 『非戦の哲学』―その眼目たる「墨守中立主義」あるいは「墨守・非攻」

1―1 墨守中立主義とは何か?

まず、小林正弥氏の「墨守中立主義」がどのようなものか、一般に入手しやすい『非戦の哲学』から要点をひろって整理しておきましょう。

目下の課題である九条擁護の運動にとって、小林氏が『非戦の哲学』で提起した最重要の論点は、この「墨守中立主義」と自ら名付けた理論です。「墨守中立主義」は、具体的には「(有)武装中立・専守防衛主義」を意味するものであって、その表記をより簡略化したものが「墨守中立主義」であるとの説明です。氏が「墨守」と名付けたのは、中国春秋戦国時代の思想家で、一般には、兼愛論(博愛論)と非戦論とを唱えた人物として知られる墨子の思想にちなんでのことです。
その主張の要点をまとめると次のようになります。

墨守中立主義の立場は、日本国憲法第九条を現在の状況下に活かした解釈であって、「新世紀に日本が確立すべき平和主義の原則である」と位置づけています。憲法学会の多数意見が非武装原理を謳ったとする第九条を、あえて「(有)武装・専守防衛主義」と捉える根拠を、小林氏は、冷戦後の世界情勢・軍事情勢の変化に求め、次のように論じています。

「核戦争の危機が去り、小紛争が頻発する今日の世界においては、専守防衛は冷戦期以上に必要であるし、テロ対策や危機管理は邦人保護のためにも重要だからである。」
「したがって、過渡期においては『非武装中立』ではなく、『(有)武装中立』の立場へと移行せざるをえないであろう。」
そして、従来の非武装平和主義は、武装中立の必要性を自覚してこなかった結果、「現に存在する危険に対処する術がな」くなっており、「非現実的な理想主義という保守派からの非難に対して、平和主義は返答することができない」ため、「実際に――サリン事件や同時多発テロを見聞して――安全保障の必要性を認識している国民は、タカ派の扇動に同調し」てしまうのであって、非武装平和主義は衰退の一途をたどっている。

「東西冷戦下においては『如何なる戦争も核戦争に直結する』という論理が存在していたために、『一切の戦争を放棄する』という非武装の立場が成立しえた」のであり、「その論理が核戦争の恐怖という現実の実感を伴っていたから、非武装中立の路線が一定の支持を国民の間で持ちえていたのであった。」
「しかし冷戦後においては、『戦争、即ち核戦争』という論理は成り立たない。」
「それゆえ非武装の立場は、信条倫理としては正しいものの、現実的倫理ないし結果倫理の立場からは正当化することがむずかしい。」
「『日本が軍事的に侵略される危険が、今後いっさい存在しない』とは断言できないからである。」(『非戦の哲学』一四六〜一四七頁)

1―2 墨守中立主義の展開
さて、『非戦の哲学』後の論文である、『ジュリスト』論文および『わだつみのこえ』論文では、九条をめぐる国民心理の行方を診断しながら、より詳細な展開がはかられています。
しばらく、その発言を近著『わだつみのこえ』論文にて追ってみましょう。

「非武装平和主義を維持すると、自衛隊が違憲となり、論理的には自衛隊を廃止して解散する必要が生じる」「この理想自体は尊く、筆者もその夢を共有している。けれども、現在の状況ではこの夢をそのまま維持しようとすると、逆に、憲法第九条2項削除のような明文改憲による平和主義の放棄を可能にしてしまうことが懸念される。何故なら、残念ながら多くの国民が自衛隊の存在を既成事実として容認しており、それを否定する主張に共感する人は近い将来には過半数には達しないだろうからである。」
「明文改憲を狙うタカ派は、『第九条は自衛隊の存在を否定しかねない条項だから、自衛隊の存在を明確にするために改憲する必要がある』とか『既に自衛隊は軍隊なのだから、それを憲法上も明確にすべきだ』等と主張する。逆説的ながら、国民の多くが自衛隊の存在を容認している現状においては、それを否認する非武装平和主義はこれらの明文改憲の主張に論拠を与えてしまうのである。」

「結局の所、多くの人は自分の身を守ることを優先するから、『万一の時には自分が死ぬことになっても相手を殺さない』という非武装平和主義には賛成しないのである。このような決意を貫徹できる非武装平和主義の志は尊い。けれども、そこまでは徹底できない人が大多数であり、これが通常の人間心理の現実である。」
「この現実を直視しなければならない。かつては、タカ派によりソ連の脅威が宣伝され、家に戸締まりが必要なように、国家にも自衛隊が必要だという『戸締まり論』が主張された。ソ連が崩壊した今日では、拉致事件などによって北朝鮮の脅威が言い立てられている。仮想敵国を作って軍事化を進めようとするのはタカ派の常套手段だが、これは上述の人間心理を利用しているのである。これに対して、私達はどうすべきだろうか?」
そのためには、「憲法第九条の解釈を、非武装平和主義のそれから『墨守・非攻』という非戦解釈へと転換することを提案」する。
「これは、古代中国における平和主義の起点である墨子の思想に因んだもので、『侵略に対しての自衛(墨守)は行うが、他国を攻撃しないし攻撃には加担しない(非攻)』というものである。具体的に言えば、自衛隊の存在自体は合憲であるが、自衛隊は交戦権を持たないが故に軍隊ではなく、アフガニスタンやイラクに対する海外派兵は完全な違憲である。」
「憲法制定過程から見ても、第九条の文言から見ても、解釈学という方法論を導入すれば、以上のような解釈が導き出せるのである。」

以上が、墨守中立主義の必要性と政治的優位性とを弁ずる氏の主張の最重要部です。

 2 墨守中立主義の検討

はじめに、前節で素描し、以下に検討する、墨守中立主義の基本的な特徴を列記してみましょう。

a 小林氏自身が「(有)武装・専守防衛主義」と名付けて明言しているように、武装自衛を当面の政治的戦術として採用しようとするものではなくて、「自衛」のために武力は必要でありかつ有効であるとする立場が鮮明です。

b そのような立場から、武装自衛力を憲法九条からいわば掬(すく)い出そうとする作業の努力ぶりが顕著です。

c その作業を通じて編み出された独特の九条解釈によって、現下にある自衛隊は合憲であると追認されます。その際、自衛隊の実態に即した考察は希薄で、武装自衛力一般として容認されており、安保・自衛隊への警戒心の希薄さが目を引きます。あたかも、自衛隊を、価値中立的・超歴史的に御(ぎょ)しやすく自由に使いこなせる機構・道具と見なしているかのような、ガードのあまさが見て取れます。

以下、もう少し具体的に問題点を検討していきましょう。

2―1 憲法論として十全か
憲法の平和主義あるいは九条を検討するばあい、これまでの憲法学における平和主義論の蓄積や到達点に照らして検討するという努力が重要です。しかしながら、小林氏が墨守中立主義を打ち出すにあたっては、憲法論としての吟味よりも政治的判断が優先しているようで、氏が必要と認める武装自衛権をいかに九条から掬い取るかに努力が集中されています。
その探究を、『ジュリスト』論文で追ってみましょう。

第一に、憲法制定過程における帝国憲法改正案委員小委員会でなされた、同委員会委員長の芦田均による、いわゆる芦田修正の解釈が検討されます。
芦田修正によって、政府案は次のように変えられました。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない。」(傍線部が、この修正がほどこされる直前の案への修正部分)

修正の結果、文理上いくつかの解釈を許すことになり、かつまた、芦田の修正意図をどう見るかについて論争点ともなった箇所が、第二項冒頭の「前項の目的を達するため」であることはあまりにも有名です。

小林氏によれば、憲法制定後に芦田自身が〈芦田修正は自衛力保持の可能性を組み込んだもの〉だったとする主張は、後日の変心と解すべきではなく、「自衛武装解釈を示唆」しているものとして積極的に評価すべきだと論じています。そのような評価を下す論証のひとつとして、いくつかの文献を参照しつつ、「一九九五年に公開された芦田小委員会の秘密議事録等を照合すると」隠された意図は自衛権と自衛力保持の可能性を残すためにこそあったとする見解の方が説得力を持つように思われるとも論じています。

ところで、その小委員会の秘密議事録ですが、芦田修正の「隠された意図」を暗示すべき一片の影さえ記録されていません。そればかりか、芦田修正の「隠された意図」とは全く相反する発言が議事録には刻まれています。

「前項ノト云ウノハ、実ハ双方(引用者注:第九条の第一項と第二項の双方)トモニ国際平和ト云フコトヲ念願シテ居ルト云フコトヲ書キタイケレドモ、重複スルヤウナ嫌ヒガアルカラ、前項ノ目的ヲ達スル為メト書イタノデ、詰リ両方共ニ日本国民ノ平和的希求ノ念慮カラ出テ居ルノダ、斯ウ云フ風ニ持ツテ行クニ過ギナカッタ」

憲法の文理解釈にあたって、憲法制定過程の議論を参照するよりも、憲法制定後に芦田が論じ始める〈芦田修正の隠された意図〉なるものに従うべき説得力のある証拠は、残念ながら全くありません。小林氏が九条やその制定過程から武装自衛力を掬い取ろうとする論法は、なかなか容易なものではないようです。
この論を補強するため、氏は、極東委員会からの指示に基づく「文民条項」を、隠された意図の現実的効果の証拠として掲げ、次のように論じています。

すなわち、憲法第66条二項にいう「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」が付け加えられたのは、「もし非武装解釈のみが正しければ、存在しない武力に対して文民統制を明記する必要はないはずだから、ここには自衛武装の可能性が事実上暗示されている。」と。

なるほど、極東委員会が文民条項挿入の指示を出した経緯を見れば、芦田修正によって再軍備の可能性が開かれかねないことへの危惧がはたらいていたことは確かです。
しかし、思考の原点・ものの見方がちがうと、かくまで次々と自衛武装肯定の論拠を発見し、書き止め・数え上げていくことになるのでしょうか。

極東委員会で文民条項の挿入が議論されたのは、「自衛」の名によって日本の「侵略」をいやというほど受けていた中国をはじめとした国々からの提起によるものであったことに注意しなければなりません。
つまり、文民条項は、文民統制を盛り込んだうえで再軍備を容認するといったものでは全くなくて、再軍備そのものを封じる歯止めとして憲法に差し込まれた警告と受け取るべきものです。

文民条項を再軍備の免罪符にもらい受けたと合点しないためには、第九条のほか、憲法における非武装のためのさまざまな規定の存在あるいは規定の不存在をとらえておくことが大切でしょう。
すなわち、
a.特別裁判所(軍法会議)の禁止(第七六条二項)、
b.開戦・講和に関する規定の不存在(ここから、戦争に関連した国家機関の特別権限や例外手続きなどが否定される)、
c.兵役義務規定の不存在(政府解釈も、徴兵制は憲法一三条および一八条から違憲としている)、
d.軍事・国防秘密に関する例外規定の不存在、
e.国防目的のための人権制約規定や、国民に特別の防衛義務(徴兵義務以外の義務)を課す規定の不存在、
f.国家緊急権に関する規定の不存在、などです。

芦田修正の「隠された意図」に依拠したいなら、これらの問題に答えなければならないでしょう。
さて、このように解釈を試みたのち、武装自衛を九条から掬い出すために、小林氏はさらに新たな試みをおこなっています。

その試みとは、『ジュリスト』論文で小林氏が引用するところの前田康博氏による独特の九条解釈の援用です。前田氏の九条解釈の眼目は次のように要約できます。

・九条第一項の「武力による威嚇又は武力の行使」にいう「武力」と、第二項の「陸海空軍その他の戦力」にいう「戦力」は概念を峻別すべきものである。
・〈「戦力」とは「交戦権を持つ武力」〉である。
・〈第二項は交戦権を否認して先制攻撃を自制したもの〉と解釈すべきであり、第一項は〈交戦権を含意しないところの武力による自衛権は容認している〉と解すべきである。

これも、瞠目すべき解釈です。
しかし、第二項にいう「戦力」とは、〈「陸海空軍」という表現で例示されたものと実態上類似した、戦争遂行に足りる組織〉を指すと解するのが妥当でしょう。それ以上の意味を付与するのは、牽強付会のたぐいといわなければなりません。

このように強引な解釈を採ってまで武装自衛権正当化に小林氏が努力を傾けるのは、なぜでしょうか。
1―1および1―2でまとめたように、ひとつには、現在の国際情勢を目して「過渡期においては『非武装中立』ではなく、『(有)武装中立』の立場へと移行せざるをえないであろう」との情勢判断があるのでしょう。もうひとつは、「人間心理を利用」したタカ派の論法に対抗し、「国民の多くが自衛隊の存在を容認している現状においては、それを否認する非武装平和主義はこれらの明文改憲の主張に論拠を与えてしまう」という「逆説」的状況を克服しなければという課題意識が指摘できそうです。

つまり、今や、非武装の「理想」を棚上げして、改憲阻止の実(じつ)を取るべきだとの政治的判断が強く作用しているためのようです。
この政治的判断については、2―5で再び論じることとし、ここでは、前田氏・小林氏の解釈学が、立憲主義を浸蝕していることを指摘しておきます。

2―2 非武装平和主義は、〈戦争=核戦争直結〉の冷戦下でのみ有効だったか

小林氏によれば、非武装中立主義は〈戦争=核戦争直結〉が十分予想された冷戦下においては意義があったが、冷戦が終わった今日ではその意義を失ったとの指摘です。
しかし、憲法の平和主義を、そのような矮小化した鋳型に流し込むことは、平和主義検討の議論として妥当ではありません。2―1でも述べたように、九条論の展開が十分とは見受けられないうえ、憲法前文の検討となると見るべき議論がほとんど無いことからも、氏の弁証の粗さが気になります。

〈自然発生的〉な、いわば核戦争忌避から来る厭戦意識が、非武装平和主義を支えていた一つの背景としてあったことは否定できないでしょう。しかしながら、非武装平和主義がその程度のものに止まるとしてしまうのは早計です。ましてや、そのように裁断して〈どこにもない平和主義〉を仕立てあげておいて、それを指して、〈心情倫理にとどまり結果倫理に堪えない〉と断ずるのは、いかがなものでしょうか。
非武装平和主義についての憲法論の蓄積、および市民の憲法学習運動の蓄積からすれば、少なくとも次の二点が吟味されなければならないでしょう。

まず、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」という前文の一節をどう見るかです。この宣言の意味と史的考察を抜きに、平和主義の吟味をおこなうことは不適切です。
「戦争の惨禍」に、広島・長崎の被爆体験と核戦争への想像力など一連の戦争体験がふくまれることは明白ですが、同時に、アジア2000万の死者への想像力が要請されていることも見据えなければなりません。

この視点から打ち出される非武装平和主義の歴史性・思想性(十五年戦争という歴史を背負った日本国家の、戦後を律する規範として理解すること。非武装平和主義は、あれこれの政策の一つとしてではなく、市民が政治と社会を見るために立ち返るべき基本的な座標軸として機能するということ)を吟味することは、平和主義の理解にとって必須です。

次に、「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」との安全保障の原理が検討されるべきです。ここで、〈信頼し、安全と生存を委ねよう〉としているのは、「平和を愛する諸国民の公正と信義」であり、信頼するのは「諸国」ではなく「諸国民」であることが肝心です。この眼目は、非武装平和主義の意義を強調するいくつもの著作・論文で、しばしば強調されているところでもあります。

このような非武装平和主義の原理も、小林氏によれば、「現に存在する危険に対処する術がな」くなっていると断じられることになるのですが、「現に存在する危険」とは何でしょうか。下記2―5とも関係しますが、そのような危険が仮にあるとしても、非武装平和主義が示すところの、軍事対峙を排した緊張緩和のための方策を執拗に探ることが、実は最も有効な対処であることを指摘しておきたいと思います。

念のために付け加えれば、非武装平和主義を掲げた憲法は、戦争になった場合の規定が一切ないのですから、戦争に対して確かにある意味で「弱い」憲法でもあります。
しかし、だからこそ、どの国・どの国民よりも戦争・紛争の実態をいちはやくとらえ、戦争あるいは紛争や国際緊張に敏感であることが要求される憲法でもあります。そして、日本国政府の政策に、非武装原理に基づいて必要な圧力を加え(直接の影響力を行使しうる議会議席の確保が当然の課題ではありますが)、市民として多様に行動することが求められるのです。
憲法が要求するこのような実践を置き去りにして、軍事力の「有効性」を護憲派自らが容認し、現実の自衛隊や安保の一層の跳梁跋扈を引き込む愚を犯すべきではありません。

2―3 「平和的生存権」について

上記2―1、2―2とも関係しますが、憲法前文が掲げる「平和的生存権」という重要な論点について、小林氏に十分な言及がないのも、墨守中立主義の十全さを疑わせています。

確認するまでもありませんが、憲法前文は、「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」と平和的生存権を明示しています。
この平和的生存権の立場に立つなら、自衛と称する戦争であれ何であれ、それが戦争である限りは、どこまでも国家とその権力を守るための戦争であって、個人の生命や生活を根こそぎ破壊するという点において、自衛と称する戦争も「正しくない戦争」も何ら異なるものでないことが開示されます。
個人の視点からみれば、どんな戦争も、個人の生命・生活を奪うものであり、決して正しくはないからです。この徹底した立場は、また、戦争の惨禍の深刻な歴史的体験に裏打ちされた確信でもあります。

「九条の会」の一員でもある作家澤地久枝氏は、かつて、有事法制議論に際して、〈国家が国民を守る?ご冗談を〉と端的に断じたことがあります。
小林氏の論には、こうした根底的な国家批判・国家論が見当たりません。このあたりに、氏の墨守中立主義に潜む根元的な問題点が存在しているのではないでしょうか。
氏の権力観を探るうえで、『わだつみのこえ』論文の次のくだりが手がかりになります。

同論文では、平和運動が凋落した原因のひとつとして、「反権力という自己規定…平和運動の中には、そもそも自らを『反権力』と規定し、現実の権力の批判しか考えない場合も存在する」との指摘があり、その処方箋として、「権力の善用…平和運動の拡大によって政権を獲得し、権力を善用して平和を実現するという目的を明確にする」との提起があります。反権力即アナーキーと断ずるような偏見が感じられますが、それはともかくとして、小林氏の権力観はここに明示されているといえましょう。

しかしながら、戦争と権力の歴史を顧みれば、むき出しの帝国主義権力は勿論、いわゆる「人民の権力」さえ、構造的・直接的暴力と無縁でないことは、あまたの歴史的事例が示しており、立憲主義の権力観もそこに眼目があることを指摘しておきましょう。

さて、もう一度くり返しますが、自衛隊をふくめて、そもそもいずれの国家の軍隊も、たとえ「自衛」(「自衛」を掲げれば、ただちに「自衛」に止まってくれるほど軍隊はやさしいものではありませんが)に止まったとしてさえ、国家機構を守るのが第一のしごとであって、国民の生命・財産を直接守るために行動するものではありません。この根本的な構造を見ずに、〈武装自衛=国民保護〉などと誤解してしまうのは、致命的な過りといわなければなりません。
現下に起きている沖縄での米軍機墜落事件や基地移転の強行を見るだけでも、軍備をもつこと自体がすでに平和的生存権を侵害しているということが容易に理解できますし、これとのたたかいこそ、市民の生命と生活の「自衛」にほかなりません。

「軍部」の存在が日本社会において戦後今日まで大きくはなっていなかったことが、平和的生存権はもとよりあらゆる人権の保障にとって有意義だったこともまた留意すべきです。軍事力にともなうこうした害悪は、〈正しい専守防衛力〉のもとでは解消するというのは楽観的です。

小林氏は、墨守中立主義によって自衛武装を九条公認のものとすれば、世論の多数を獲得でき、自衛隊の小害悪は受忍しつつも、自衛武装に反するところの海外派兵という大害悪には歯止めがかけられると企図しているかのようです。
しかし、軍事の論理を根底的に否定するところの非武装平和主義を捨てなければ海外派兵阻止の世論獲得ができず、自衛武装を公認すればそれが可能だというのは、権力の「善意」を信用しすぎているでしょう。
自衛武装を護憲派が公認したとすれば、目下の安保・自衛隊をめぐる彼我のせめぎ合いのなかで、「敵」を勢いづかせることはあっても、自衛隊が国内に律義に止まってくれ、自衛隊が小害悪に止まってくれる保障など全くありません。

しかも、墨守中立主義は、安保・新ガイドライン・周辺事態法と発展してきたいわゆる「日米同盟」とその現在ただ今の様相(「テロ特措法」「有事関連三法」「イラク特措法」「国民保護法」)のなかで、〈専守防衛力〉をどのようなものへと縮減するのか、その政策方途も示していないのですから、その信頼性ははなはだあやういというべきでしょう。

ところで、武装自衛という軍事力の有効性を承認しながら、一方で、戦争における死者について、小林氏は、『わだつみのこえ』論文で次のように論じています。
すなわち、平和運動の再生のための方策のひとつを論じた箇所で、「若年層には第2次世界大戦の日本の戦争問題よりも、進行中の『反テロ』世界戦争における劣化ウラン問題やその死者に焦点をまず合わせた方が効果的だろう。」と。
では、その死者を前に、墨守中立主義が説くところの武装と軍事力の有効性がはたして維持可能なのか、疑問なしとしません。

そもそも、憲法前文の前掲のくだり「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」は、平和的生存権の普遍性、すなわち〈直接的暴力および構造的暴力の世界的な克服〉を日本国民に課したものでもあります。

この規定に従えば、「自衛」武装力というまぎれもない直接的暴力の有効性を容認することは不可能であり、なおかつ、構造的暴力の克服に向かっての努力が要請されることになります。
この点に関連した小林氏の論点に、『わだつみのこえ』論文の次のくだりが注目されます。
それは、世界社会フォーラムの運動を積極的に評価し、「もう一つの世界」というビジョンを、平和運動再生の処方のひとつに掲げたくだりです。

「もう一つの世界」とは、氏も指摘するとおり「ネオ・リベラリズムのグローバリゼーションに反対する」運動であり、とりもなおさず、構造的暴力に反対する思想と行動とを意味しています。氏が、構造的暴力を否定して「もう一つの世界」を主張しながら、「自衛」武装力という直接的暴力を肯定するのは深刻な矛盾だといわなければなりません。

2―4 墨守中立主義は結果責任を全うできるか

非武装平和主義に代わる墨守中立主義の妥当性を支える最重要の論点は、「侵略」への対処と「結果責任」のまっとうにあるようです。おそらく憲法論の論点を特に掘り下げなくとも、この論点で墨守中立主義の優位性は明白だと小林氏は判断しているのではないかとも推察されます。

では、小林氏が、断然、結果責任を負えると保証される墨守中立主義は、万一の侵略の可能性と専守防衛の様相についていかなる想定と解決を用意しているのでしょうか。
結果責任のまっとうのためには、以下のような問題について明確な応答が必要です。
なぜなら、非武装平和主義を目して「現に存在する危険に対処する術がな」いという批判は、墨守中立主義が担ってくれるだろう結果責任の具体的なありようを示してこそ有効な批判となるはずだからです。
専守防衛が〈万が一の危険への対処だ〉という一般論では、世間の〈右〉から嘲笑される非武装平和主義の「空想性」(私はそう捉えていませんが)となんら変わるところのない、俗論に終わってしまうでしょう。
結果責任を負うと自負するためには、以下の諸点に一定の回答を出さなければなりません。

まず、予想される侵略あるいは武力攻撃国はどこか。また、その蓋然性の多少、および、そう判断する国際情勢・仮想敵国と日本国の関係や懸案あるいは紛争状況およびその国の軍事能力はいかなるものか。

次に、その国が日本を侵略あるいは武力攻撃するのはどのような理由で、どのような目的によるものか。
次に、侵略あるいは武力攻撃の予想されるシナリオはいかなるものか。ミサイル攻撃か、上陸作戦の展開か、都市爆撃か、原発破壊攻撃か、ゲリラ的破壊工作か。はたまた、「テロ」か。
そのばあいに、専守防衛力として差し当たって追認する現行自衛隊および安保日米同盟の発動はどう展開し、交戦状態はいかに推移するのか。

住民の安全保護は、いかにはかられるのか。そのためには〈良い有事法制〉が必要になるが、その法制と出来たばかりの有事法制との関係はどのようなものか。パニックによる混乱、買い占め・売り惜しみ・略奪、ライフラインの破壊による都市機能の麻痺、避難民による交通渋滞・麻痺、生産・流通・医療の停止・途絶にともなう生活と生命の危機などなどは、「民間防衛」と〈良い有事法制〉によってカバー可能か。

墨守中立主義によって武力の有効性と軍事合理性が追求されれば、当然、有事には軍事が〈公共の福祉〉とされ、人権は強力に制限される。とすれば、反戦運動は投獄を覚悟することになるが、それでも、「武装中立の必要性を自覚し」なければならないのか。

予想される侵略国による占領行政はいかなるものになると考えられるか。この点は侵略目的とも関係し、結果責任を担うためには当然視野に入れるべきことがらとなる。
侵略軍の占領支配は何が狙われるのか。また、その持続は可能か。戦争の後、日本の生産力を落とさずに獲得搾取が可能か。これらの課題を認識した〈敵国〉が、侵略におよぶ蓋然性はあるのか。

以上、侵略の蓋然性吟味に必要な項目を思いつくまま記しましたが、墨守中立主義の回答はいかなるものでしょうか。
ちなみに、これら侵略の蓋然性と事態の推移可能性を、非武装平和主義の立場から検討したものとして、本会・反改憲ネット21が編集した『Q&A 日本国憲法のよみ方』(明石書店、2001年)の第1部が参考になります。

2―5 「通常の人間心理の現実」について

小林氏の自衛武装必要論を支える「通常の人間心理の現実」という、国民の安心感に身を寄せた議論を検討しましょう。

第一に、個人が危害を加えられる犯罪状況(正当防衛と警察力による対処範囲)と、国家間あるいは集団間の戦闘(事故・事件にあらざる紛争の存在。敵の撃破殲滅へと向かう軍事合理性に則ったたたかい)とを同一次元で論じるのは、まやかしです。この点は、小林氏も『わだつみのこえ』論文で言及はしていますが、結局、「通常の人間心理の現実」として、批判を控える結果になっています。

第二に、自衛隊容認の世論、いわゆる〈九条も自衛隊も安保も〉という世論の即自性・受動性・感覚性・無責任性そして多様性を見過ごしています。

安保を日本経済「繁栄」の必須条件と見なし、日米関係の悪化をもって最大の貿易相手国喪失と恐れる見方。自衛隊を災害救助部隊として期待する見方。自衛隊の実相について知ることなく「自衛力」一般あるいは「専守防衛力」と見なす依頼心。などなどを見て取る必要があります。一定の画然とした判断に基づいた主体的な政策選択として〈九条も自衛隊も安保も〉の世論が存在しているわけではありません。

また、〈自衛隊も安保も〉ばくぜんと認めながらも、〈九条も〉が存在してきたことの意義にも着目しなければなりません。つまり、〈九条も自衛隊も安保も〉の世論を〈九条〉につなぎ止め、政府をして「解釈改憲」を余儀なくさせてきたのは、九条の原則が存在し、これを遵守するよう要求する主体的な運動と議会勢力が存在してきたからです。
自衛隊をめぐって、政府をして、解釈のつじつま合わせを余儀なくさせたものは、非武装原理の憲法の平和主義です。決して、自衛隊を認めなかった「頑迷な」平和主義が障害となって、自衛隊・安保水準をここまで引き上げさせたわけではありません。

これまでの戦後政治過程において、実効性に疑問はあるものの、自衛隊をして、ともかく「自衛のための必要最小限の実力」「専守防衛」というたてまえをとらせてきたこと。非核三原則、武器輸出三原則、軍事費抑制をもたらしてきたもの。これらは、九条とその非武装平和主義が存在したからであって、九条をして自衛軍事力容認に仕立て直すことによって実現できたものではさらさらありません。

したがって、反改憲派が自衛軍事力を容認すればするほど、改憲阻止の運動が有利に展開するという見通しは、甘いというより危険というほかありません。墨守中立主義による自衛隊認容は、安保・自衛隊および「日米同盟」を現下の位相にまで引き上げてきたベクトルを維持ないし促進することはあっても、これを押しとどめることはできないでしょう。

先の参議院選挙での、反改憲派の退潮は、はたして、反改憲派の自衛隊違憲論を世論が嫌い、そのために結集ができなかったためなのでしょうか。
平和勢力が、自衛隊合憲論を受け入れれば、過半数の世論を獲得して、イラク派兵を阻止し得るのでしょうか。
そうではなく、自衛隊あるいは武装自衛権認否での見解の相違にもかかわらず、非武装平和主義派=自衛隊違憲派と、「専守防衛」派との共同行動が可能なことは、イラク派兵違憲訴訟を初めとした現実の諸行動で証明されています。改憲阻止の一点での共同行動=平和への結集が可能なことも、「九条の会」の今回の旗揚げや、この会やアピールへの各方面からの期待の声からも明瞭でしょう。
そうした声が、それぞれ独自性を活かしつつ、ひとつの大きな力に結集するためには、憲法の示す非武装平和主義を墨守中立主義=武装自衛論にとりかえて世論の安心感に寄り添う必要などないのです。

2―6 改憲への抵抗力はいずれにあるか

以上、検討・秤量してきた墨守中立主義は、改憲論の批判・抵抗という点においても、災厄をもたらしかねません。 先に発表された読売新聞2004年改憲試案と、墨守中立主義との立場の違いはほんの数歩の近さにあると観測できます。

たとえば、同試案では「第一二条(1)日本国は、自らの平和と独立を守り、その安全を保つため、自衛のための軍隊を持つことができる。」としており、墨守中立主義の武装自衛力論に近しい条文になっています。また、詳細は別稿にゆずって省きますが、民主党の改憲中間報告を読んでも、足をすくわれる危険は大といわなければなりません。

「国際貢献」「人道支援」あるいは「『テロ』との戦い」を名目として改憲派がうかがう九条改憲の意図は、直接には、自衛隊の海外派兵と集団的自衛権の承認、そして国連安保理常任理事国入りと一体となった国連PKF活動への積極参加にありましょう。
そこには、「国家威信」の伸長・国際政治における力による支配力の確立の要求が横たわっており、日本の帝国主義的権益(一橋大教授渡辺治氏言うところの「なぐる国」)の擁護を見てとることができます。そのような改憲意図を前にしながら、軍事力の有効性を承認して陣地を後退させてしまい、抵抗線を自ら失う愚を犯すわけにはいきません。

これらの改憲意図を最も根底的に批判し、対抗政策を打ち出せる機軸は、平板な世論の数合わせではなく、非武装平和主義にほかならないでしょう。それはまた、平和をきずく運動主体を形成する機軸であり、その意志と熱とを支える原理でもあります。

 私たちが、日本国憲法の示す非武装平和主義の徹底性と有効性を、理論的にもまた議論力のうえでもいっそう鍛えていくことが、いま求められていることを強調するものです。

 

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