Q2.有事法制三法案に見る有事法の根本的問題点は?

A.何に備え、誰を守るのか?国民を守らない有事法
 
1.いったい何に「備える」のか? 
2.有事法は誰を守るのか?
3.国民を守らない有事法
4.国会、地方自治体の軽視・無視
5.「備えあれば憂いなし」か「軍備(そなえ)が憂いを創りだす」のか

1.いったい何に「備える」のか?

 よく指摘されていることでもありますが、問題点の第一は、今回提案されている武力攻撃事態法案では、対応すべき武力攻撃事態の定義を、「武力攻撃(武力攻撃のおそれのある場合を含む。)が発生した事態又は事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態」、などとしている(第2条)ことについてです。つまり、日本に対して実際の武力攻撃がなくとも、「武力攻撃のおそれのある場合」や「武力攻撃が予測されるに至った事態」があれば、この法律は発動するのです。

 しかし、こうした「武力攻撃」といった文言にもかかわらず、今回の有事法制整備の動機は、第一に、アメリカの行う戦争に協力するため(周辺事態、対テロ戦争、対「悪の枢軸」戦争)、第二に、それとセットになる、日本の米軍協力に伴う日本本土や日本にある米軍基地への攻撃への対処、そして第三に、海外権益を守るための日本自
身の海外派兵への対応であろうと思われます。(前二つが当面の想定事態。) 
 
 そう、現実に想定される戦争は、多くの国民が想定しているような純粋な日本侵略への対応ではないように思われます。しかし、そういった日本への侵略はまずないにもかかわらず、日本が米軍の戦争に協力すれば、米国の相手国からの攻撃を受けることは十分ありえます。テロ攻撃を含めたその攻撃目標は、まず第一に日本国内にある米軍基地でしょう。
 ところで、昨年、「テロ対策」ということで自衛隊法が改正され、自衛隊が米軍基地の警備を行い得ることとなりました(自衛隊法第81条の2、91条の2)が、これらを併せて考えると、米軍に協力したり米軍基地が日本にあるからこそ、日本は攻撃を受ける誘因を持つということになります。

 今回の法整備は、そうした戦争に備え、そうした際の軍事活動を(国民の戦争協力を強制しながら)実行可能とするものです。そのことは、今回の有事法制が、純粋な日本有事だけではなく、米国の戦争への日本の「後方地域支援」を定めた「周辺事態法」と連動するということが政府答弁において繰り返し述べられていることも併せて考える必要があるように思われます。
 
 結局、日本の「有事」は、米軍絡みでしか起こり得ないのが現実です。しかし、今まさに、政府は、米国・ブッシュ政権の「対テロ戦争」や「対『悪の枢軸』戦争」に協力するために有事法の法整備を急いでいます。ここまで米国に何でも言うとおりに気前よく協力することを承諾しようとしているのは、(したたかなヨーロッパ諸国に比
して) 日本ぐらいのものです。しかし、今回の有事法制提案の日本政府側の動機は、ただ単に対米従属というだけではありません。そうしたこととともに重視したいのは、そういった米国政府の声を利用して、日本の自衛隊も自らのステータスの確保や拡大を策し、「いざというときに軍がフリーハンドを持つのは当然」という雰囲気をつくろうとしていることです。「国民の安全」の名の下、こうした政治と社会の軍事化が進み、平和と自由が圧殺されることにつながる動きが進んでいることに、強い危惧の念を抱きます。

2.有事法は誰を守るのか?

 武力攻撃事態法案では、第四条の「国の責務」の項に、「国は、我が国の平和と独立を守り、国及び国民の安全を保つため、武力攻撃事態において、我が国を防衛し、国土並びに国民の生命、身体及び財産を保護する固有の使命を有する」、とあります。

 しかし、ここでいう「国」という言葉の内容は非常にあいまいです。主語の「国」は、おそらく地方自治体と区別された中央政府の意味でしょうが、「国及び国民の安全」という場合、国民の安全と区別された「国の安全」とは何でしょうか。国土防衛のことでしょうか。また、この第四条の規定は、(政府の説明によると)武力攻撃事態における国(中央政府) の使命として、「我が国を防衛」することと「国土並びに国民の生命、身体及び財産を保護する」ことの二つが挙げられているようですが、「国土並びに国民の生命、身体及び財産を保護する」ことと区別された「我が国の防衛」とはいったい何を守るつもりなのでしょうか? 「我が国」が国土や国民の生命等でないとするならば、支配者層でしょうか、統治機構でしょうか、あるいは資本主義体制でしょうか。
 
 そもそも軍隊が国民ではなく国家を守るものであることは、例えば先の沖縄戦を見ても明らかなことであろうと思われます。そうでなければ戦争などできないからです。
国民の命を国家以上に大切にする戦争など聞いたことはありません。
 
 本来、人間の命はみんな平等のはずです。
しかし、戦争においてはその前提は一気に崩れます。戦争においては、勝敗が優先し、国民特に弱者の命は真っ先に切り捨てられます。戦争は戦争の指導者・政府中枢が生き残る限り継続できるものと考えられ、それに比べ前線の兵士や一般住民の命など、国から見れば極めて軽いものとみなされそう扱われます。
つまり、軍事の論理には、もともと不平等で反民主的な構造が内在しているのです。有事法が守るのはあくまで、政府中枢、つまり支配者層なのです。

3.国民を守らない有事法

 今回の武力攻撃事態法案では、第八条において、「国民の協力」として、国民が戦争に協力するよう努力することが規定されました。表現こそ、「強制」とか「義務」とかいう言葉やそれを連想させる言葉遣いを避け、「協力」に「つとめる」という風に規定し、ソフトな言葉遣いをしていますが、実態は大きくは変わりません。なぜなら、戦争は、自衛隊や米軍だけではなく、全国民の協力、総動員なしには遂行できるものではないからです。
 
 そういう中では、たとえ法が戦争協力を罰則などで直接強制しなくとも、今回の法整備を契機として、国民は軍に「協力するのが当然」というふうになっていくならば、戦争への協力を拒めば、「あなたはなぜ協力しないの?」と、あの日本社会特有の集団主義、国民間の相互監視システム・忠誠競争が(現在の日常生活以上に)作用するだろうことは誰でも想像がつきます。さらに、政府から自らの勤める会社に協力要請がいけば、業務命令を通じて戦争に協力させられることになります。企業内での雇用関係ですから、国家による罰則はなくとも、企業により、何らかの理屈をつけて解雇などの処分が下されることは十分ありえます。
 
 さらに、今回の有事法案のように、いくらかのものには罰則を設けて強制するというような場合はどうでしょうか。おそらく、国民を戦争に動員するために、生命、財産、言論の自由等々、ありとあらゆる人権がより一層規制されることになると思われます。有事法は、必ず拡大・エスカレートする傾向をもつことを忘れてはなりません。
 
 そして、今回、武力攻撃事態法案でも、さりげなく、第三条四項では、「日本国憲法の保障する国民の自由と権利」が、「制限」できることが規定されています。
 この有事法制による権利制限は、一般的な権利制限とは異なり、戦争協力・軍事目的のための制限であるということです。これは、日本国憲法と真っ向から衝突します。なぜなら、日本国憲法は、第九条など特定の条項のみではなく、憲法体系全体で徹底的に戦争(及び軍事の論理そのもの)を排除し、そしてそのための人権制限を一切認めない憲法構造を創り上げているからです。

 本来、原則として、「侵すことのできない永久の権利」であるはずの基本的人権を、(それ自体憲法違反の)軍事目的で脅かすなどということは許しがたく思われます。
今回の法案では、さまざまな人権制限が規定されています。例えば、公共的機関や公益的事業に勤める人々には、戦争協力のための職務命令が職場内で出されることになるでしょう。この「公共的機関」や「公益的事業」に限定はありません。政令で、つまり内閣の判断ひとつで、その範囲はいくらでも広げることができるのです。

 さらに、有事法が向いているのは、対仮想敵国ではありません。他ならぬ対国民なのです。実際に二十世紀百年の歴史において、国民を守ってくれるはずの国家(軍隊・警察)が、外国人よりも自国民を圧倒的に多く殺しているという客観的な事実を直視するならば、そのことはより明白です。有事法は、まさに戦争に協力しないかもしれない国民への威嚇であり、それが発動するなら国民への攻撃になります。

 このように、戦争を遂行する国家の敵になるかもしれない「あなた」自身を監視し威嚇することにより抵抗を防止しようとするのが、この有事法の本質なのです。昨今の盗聴法、国旗・国歌法、住民基本台帳法改正(国民総背番号制)、メディア規制法案(個人情報保護法案、人権擁護法案)などの法整備の動きは、有事法制整備の動きとあいまって、こうした国民の監視・統制・管理を強めるものといえるでしょう。

4.国会、地方自治体の軽視・無視

 今回の有事法は、戦時において、首相に非常に強大な権限が集中する構造になっています。首相は、他の国務大臣の任命・罷免権を持つ内閣の首長であることはもちろん、防衛庁の所属する内閣府の担当大臣でもあり、そして武力攻撃事能対策本部長と安全保障会議の議長を兼ねます。そして、武力攻撃事態に際し、対処措置を的確かつ迅速に実施する必要があると認めるときには、首相は、対策本部長として、国の行政機関や地方自治体、指定公共機関の「総合調整」を行うことができ(武力攻撃事態法案第14条)、その本部長の求めに応じ、人物としては全く同一の首相が、自治体や指定公共機関に「指示」を出し、さらに自ら又は関係大臣を指揮して対処措置を実施(代執行)することができるとされています(第一五条)。まさに、絶大なる権限です。

 この際、自治体も指定公共機関も意見具申ができるだけで、例えば自治体は、国による自治(権)侵害の際に本来許されるはずの「国地方係争処理委員会」での審査や裁判所での審査への道が開かれてはいません。しかも、武力攻撃事態法案第七条では、武力攻撃事態への対処に関して、国が「主要な役割」を担うものとされ、かつ自治体は、「国の方針に基づく措置の実施」などの役割を担うこととされることも重大です。

 現場最前線で住民の生命、安全の保護の行政を担う地方自治体は、平和保障においても、第一義的に「主要な役 割」を担うべきものと思いますが、現場の実情を知らない国(おそらく役人)が主導権を握り、戦争への道を主導し、自治体をその末端機関に位置づけています。これらは、地方自治への無理解を示すものではないでしょうか。そして何よりも、これでは、結果的に、住民の生命や安全がないがしろにされてしまいかねません。
 そして、今回の法改正で、自衛隊の活動についての国会による事前承認の原則(自衛隊法第七六条) が大幅に空洞化している点も見すごせません。陣地構築などでは国会の事前承認なく出動できることになっています。これは、国民の代表機関である国会の軽視であり、それはつまり国民の監視・批判・制御を抑えてしまうことであり、
民主主義の空洞化を意味します。

 さらに、首相が、武力攻撃の「おそれ」やその「予測」の状況を判断することには大きな不安が残ります。しかも、安全保障会議の中に設置され、内閣官房長官を委員長とする事態対処専門委員会の力を借りることとなるでしょうが、国務大臣が全て文民であることを考えると、専門的な軍事判断はその委員会に参加する自衛隊制服組のトップである統合幕僚会議議長が主導することにもなりかねません。そうなると、なお一層、シビリアン・コントロールが大幅に空洞化することが危惧されます。さらに、そうした武力攻撃事態の認定に際しても、アメリカとの
「相互協力」(武力攻撃事態法案第二条)条項とあいまって、アメリカの意向が重視されることになるでしょう。そうなると、これは、「シビリアン・コントロール」ならぬ「アメリカン・コントロール」となつてしまいます。

5.「備えあれば憂いなし」か「軍備(そなえ)が憂いを創りだす」のか?

 小泉首相は、口を開けば、「備えあれば憂いなし」などと言っては、この有事法制を推進しようとします。しかし、重要なことは、今そこにある「憂い」の内容を冷静かつ慎重に吟味することであり、いかにしたらその「憂い」が解消できるかを考え実行することであり、そのための「備え」にしても、どのような方法・手段が最も適切かを検討することだと思います。またその際に対応すべき危機の優先順位の決定も行わなければならないはずです。

 軍事力による防衛はそれほど「現実的」な方途なのでしょうか? 日本は狭い国土のうち75%が山地で、残りの25%の平野に世界有数の人口1億2千万あまりの人々が住んでいます。だから、その狭い居住空間に、住宅が密集し、50基以上の原子力発電所があり、しかも「仮想敵」などと想定されているといわれる北朝鮮の近くの福井県にその約三割が集中しています。これがミサイル攻撃されるならば、偏西風の影響もあり、中部から東日本に死の灰が降り注ぐことでしょう。また、「資源小国」の日本は、多くの石油備蓄基地を持っていますが、朝鮮半島と近い九州地方では、何と洋上に基地があります。洋上基地だけでも約4000万キロリットルの備蓄を行っているので、ここをミサイル攻撃などされたならば、九州は火の海になります。

 さらに、この「都市型社会」の時代、東京など巨大都市は、電力、食糧、石油等の供給ルートが断たれたら、都市機能は完全に麻痺します。否供給ルートの撹乱予測が出ただけで、買いだめ・売り惜しみ・略奪・放火・都市ゲリラなどが出現し、その結果、数千万単位の難民が出現することさえも予測に入れておかなければなりません。
こうした大パニックに対しては、戦略備蓄や警察・軍隊の治安強化もそれらには対抗できないものと推測されます。とりわけ、日本のように、政治、行政、経済、文化のほとんどが東京に一極集中している場合、首都東京への攻撃又は撹乱1つで、より一層の破滅的な事態が起こりえます。
 
 こうして見ると、軍事的防衛論は、国民の命を守ることを優先するならば、少なくとも日本などでは、全く現実性のない政策論であろうと思います。しかし、こうした国民を死地へと追い込みかねない軍事的防衛論の必要性から、有事法の必要性が説かれ、そのことにより「幻想の戦争」よりも確実に国民の自由・人権そして民主主義、平和が失われるようなことがあってよいものでしょうか。

 最大の疑問は、軍事力による安全保障論そのものへの疑問であり、そのことにより、本来国家存立の最大目標たる人権保障が無となりかねないところにあります。日本国憲法は、あらゆる戦争と戦力を放棄する非戦・非武装平和主義を採用していますが、「暴力の連鎖」が平和・人権・民主主義を危うくすることが明確となってきた(特に「9・11」事件以降の)国際情勢を見るにつけ、今こそ、国際紛争を武力によらず解決しようとするこの憲法の方途を見直すべきではないかと思います。
 
 それと同時に、侵略戦争のみの放棄にとどまらず、自衛戦争を含むあらゆる戦争を放棄し、さらに自ら進んでその手段たる軍備を放棄した日本国憲法の「徹底的な平和主義」は、戦争・武力行使がなければそれでよいとする「消極的平和主義」に留まらず、戦争・武力行使の遂行手段たる軍隊の不保持、さらに武力紛争の根本原因たる飢餓・貧困・差別・抑圧・搾取・生態系破壊等の構造的暴力の根絶・撤廃に向けた主体的努力、「全世界の国民」の平和的生存権の保障の確認、「正義と秩序に基づく国際平和」・武力によらざる平和・「軍隊のない世界」の構築への能動的努力を宣言・規定した点で、世界史的な意義を有する「積極的平和主義」と言えると思います。

 この平和憲法の「徹底性」と「積極性」こそ、日本そして世界の市民にとっての共通目標となりうる理念であると思います。だから、今こそ、憲法前文もいう、全世界の国民が「ひとしく」保障されるべき「平和的生存権」を、実効力をもって保障するための立法措置が国内外で必要であるとも考えます。

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